昨今、ニュースを眺めていると、「これが国会議員の政策なのか!?」「これが一国の長の発言なのか!?」と呆れてしまうものばかりです。
昔から社会はそうでしたが、最近さらに権力者たちは横暴になってきたような気もします。
生真面目に生きることはとても切ない
まず日本の国において、「この政治家に忠実に税金を納めることはとても不毛だな」と感じて頭が痛くなるのが、人の良心として自然なことです。もはや悪魔に献金しているような気にさえなります。
あからさまな脱税は罰せられる懸念がありますが、しかし「税」という制度に対して、必ずしもそんなに馬鹿正直になる必要はありません。
学校の中で、誰もルールを守っていないのに一人だけ馬鹿正直を貫く必要もないです。
誰にでも言えることではない
「生真面目に生きなくてよい」という言葉は、誰にでも言える言葉ではありません!
真面目に生きることが出来ない人に「真面目じゃなくていい」と言ってしまうと、だらしないままです。ズルいままです。
そうではなくて、「一通りの社会性や献身性を発揮してきたな」と自分で思えるなら、もうしたたかに生きればよいです。
目安は2つ
したたかに生きてよい基準は、2つの目安があります。
一通りの社会性、勤勉さ
1つは、一定の社会性や勤勉さがあるかどうかです。
不特定多数への献身
「社会のために」「クラスのために」という規模で、残業や文化祭の準備や部活の部長の責任に耐え抜いた、というようなことです。
親しい友達のためだけでなく、あまり好きでもない人たちのためにも懸命に体を張った、というようなことです。
実際にそうしたプロセスを踏み、「私こんなにがんばったのに、無神経な人ってなぜこんなのに多いの!?」という失望や燃え尽き症候群のようなものを経験したなら、もう大衆奉仕をしようと思わなくてもよいです。今の社会の中では。
グリーンが70点くらいはありそうで、レッドが60点はあるはずです。
大衆奉仕ではなく、好きな人に尽くせばよい
「報われない!」という虚しさを経験しても、それでも他人のために思いやりを注ぎたい人がいるでしょう。そういう慈愛の深い人もいます。
それなら、見知らぬ人々のためにこども食堂をやるのではなく、あなたが好きな友達や異性に、お弁当を作ってあげるとよいです。
お弁当というのはもちろんたとえであり、喜ばせる内容は何でもよいです。
または、そう好きでないとしても、ちゃんと恩返しをしてくれそうな人を選んで優しくするとよいです。それなら職場やクラスにも何人かいるでしょう。
「恩返しなんか気にせず施したいんだよ!」という強い慈愛があるなら、それは好きな人や好きな友達に注ぐとよいです。
奉仕心の強い人は、ギブ&テイクすら必要ないと思っていますよね。
小さな「住み分け」
「この人は優しいから、優しくしてあげよう♪」と相手を選んで心優しく交流するのは、とても小さなアセンションのようなものです。小さな「住み分け」です。
好きな女や我が子を特別扱いすることとは違いますよ?それは心が狭いだけです。「誰にでも優しくしたい」という深い広い慈愛に達したあとに、自己防衛のために優しい人を選り分けて交流するのが、「住み分け」です。
スナフキンは善い人ですが、すべての法律を守っているとも思えないでしょう。
ユパ様は真の英雄ですが、すべての民を助けるわけでもないでしょう。
そういう感じです。