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断食や寺籠りは良いことなのか?

スピリチュアルな師や求道者について、断食や寺籠りをしている人を「悟った人!」と思っている人が多いでしょうか。

 

 

断食や寺籠りは、ロイヤルブルーのレッスンに過ぎない

断食や寺籠りを行うことは、決して悪いことではないです。

しかしこれらは、ざっくりと言えば、ロイヤルブルーのレッスン過程に過ぎません。アセンションを達成するにはまだ他に6色のことを極めなければなりませんし、断食や寺籠りだけでロイヤルブルーが極められたわけでもありません。

 

断食や寺籠りの状態をずっと続けるのは、良いこととは言えないです。

 

 

自己成長の一環、霊的な気づきの一環として、やってみるとよい

断食や寺籠り的な隠居は、人生の中で一時、やってみるとよいです。色々と気づくこともありますし、鍛えられることもあります。

ただし、大きな注意点があります!

断食も寺籠りも、労働生活と並行することは難しいです。活発な社会生活(PTA役員をやるなど)と並行することも難しいです。そのため断食や寺籠りをするなら、転職の間のモラトリアム期間を利用するなど、充分な配慮を行ったほうがよいです。

 

 

断食をすると何が起こる?

断食を1週間も続ければ、感じられるものがあるはずです。

 

体内浄化され、繊細な感覚が身に付く

まず、体内が浄化され繊細な感覚が身に付きます。断食後は、アルコールが不味く感じる、お肉が生臭い、市販のスイーツが甘すぎる、シャンプーの匂いが気持ち悪い、排気ガスや都市、車の匂いが気持ち悪い、といったことを感じるようになるでしょう。何が体に有害なのか、感じ取れるようになります。

 

霊触サイキックが身に付く

次に、霊触サイキックが身に付きます。

レイキや不可視のエネルギーを、触感で感じとれるようになります。霊的なものの存在を感じ取れるようになり、霊的な事柄への理解が深まります。

 

痩せる。小食になり、太りにくくなる

小食になれます。「胃が小さくなる」という言い方をしますが、小さくなるというよりは胃の消化力が衰えることにより、自然と多くを欲しなくなります。すると、スリムな体型を保ちやすくなれます。食費にお金が掛からなくなります。グルメにあまり興味がなくなり、付き合う人間関係や出入りする場所が変わっていきます。

 

根性、忍耐、自制心が鍛えられる

我慢強くなったはずです。断食を徹底することは根性が要ります。空腹感や「力が出ない」という困難、イライラを、根性だけで乗り越えなければならないので、根性が身に付きます。自制心、忍耐力が身に付きます。

 

「大衆とは異なる感覚がある」と理解できる

こうした変化を経ることで、「人の感じ方は変わっていくのだな」と痛感します。「人間は甘いものが好きな生き物だから、甘いものを食べ続けて当然なんだよ」と思っていたのが、「そうか、食生活を改めるならそれほど甘いものなんて必要ないんだな」とわかります。社会においてこんなにグルメな店や商品なんか必要ないんだ、減らしたほうがいいんだ、とわかります。

 

 

寺籠りをすると何が起こる?

寺籠りについても、1日体験ではあまり意味がなく、少なくとも1週間くらいは続けたほうが好ましいです。必ずしもお寺や神社の寺籠りプログラムなどに参加する必要はなく、近しいことを自力で行うことも出来ます。インドや東南アジアにそうした施設があったりもします。利用を推奨はしません。あまり悟った師がいるわけでもないので・・・。

 

断食と同じようなことが起こる

寺籠りでも素食が実践されていることが多いです。最低限のこざっぱりした食事だけに留める、という生活を数日続けることで、上記の断食の成果と同じことが得られます。

 

座禅瞑想の技術が身に付く

寺籠り的なプログラムでは、座禅瞑想の時間を持つものが多いです。強制的に実践することで、座禅瞑想の技術が身に付く人が多いです。「身に付きます」と断言はできません。形だけ座禅瞑想をしているだけで、中身が伴わない人も結構います。それはそれで忍耐力が身についていたりもしますが「座禅瞑想の技術が身に付いた」のとは違います。

座禅瞑想の継続によって霊視、霊聴が芽生える人もいます。

 

スマホ依存、エンタメ依存などを克服できる

寺籠りでは、スマホ、テレビ、インターネットなど快楽的なコンテンツを完全に禁止されることが多いです。現代人の多くはそれらに依存していて生活や精神、感情に支障をきたしていますが、そのいびつさを矯正できます。

スマホに触らなくても1日過ごせる、というような自分に戻れるでしょう。

 

おしゃべりや多動が改善される

寺籠りでは、無駄なおしゃべりが制限されることが多いです。大きな声でしゃべるのも禁止で、必要最低限の会話を静かに上品に交わします。このような取り組みを経ることで、おしゃべりが改善されたり、多動的な気質が改善されたりします。

 

自然の美しさに気づいたり

スマホやテレビなどが取り上げられる反面、近くの森林を散歩するような時間が多くなります。農業や草むしりなどやらされたりします。その過程で自然の美しさに気づいたり、ただただ無心に草をむしることが「ちょっと面白い」と感じるようになったりします。

 

何が大切かに気づく

現代社会、先進国社会でもてはやされている物事から離れる暮らしの中で、「人にとって何が真に大切なのか」といったことに気づくでしょう。それは座学で教わるから、ということではなく、体験の中で自分で感じ取るものです。

 

 

しかし断食や寺籠りをずっと続けるのは良くない

「断食をずっと続けていれば、そのうち霞(かすみ)を食べて生きていけるようになるのだ」などと語るスピリチュアリストがいるでしょうか。そういう人間がいないわけでもないのですが、あくまで特異体質的な例外です。ほとんどの人にとっては食によって栄養を補給することが必要です。断食を続けすぎると、やつれ、筋肉が減り、仕事にも生活にも支障が出ます。病気になってしまいます。細くなりすぎることはかえって美貌を損ねます。

「肉って臭いのか!シャンプーって臭いのか!」といったことを体験的に気づいたなら、断食をやめて普通の食生活に戻ったほうがよいです。この社会で暮らしていくつもりなら、社会に適応することが大切です。

 

寺籠りの生活をずっと続ける、というのは、慣れてしまったのなら現実逃避に近いものがあります。労働、社会生活、交流などの苦痛から逃げて暮らすのは、真に強くなったとは言えません。

寺籠りのような素朴な静かな生活にも耐えられたうえで、平均的な労働や社会生活にも耐えられたほうがよいのです。

寺籠り的な施設で講師や長期生活をする人は、無欲ではあるかもしれませんが、引きこもりみたいな軟弱な人であることが多いです。こうした講師や生活、寺の住職などをずっと続けるブループリントの人はいないです。そこから抜け出してくるべきなのです。

寺籠り的施設で講師などやる人は、あまり尊敬できる人とも言えません。

 

 

寺に行かなくても寺籠り的な取り組みは出来る

お寺やインドの瞑想センター、リトリートセンターなどに行って大金を払わなくても、寺籠り的な取り組みは行えます。別に家でも行えます。家族の理解を得るのはちょっと難しいかもしれませんが、家で完結しうるものです。講師も必要ありません。お金はかかりません。

 

 

バックパッカー旅の中で並行できたりもする

上記の断食的な感覚変化や、寺籠り的な節制、それらにおける諸々の気づきは、バックパッカー旅をしながら並行できたりもします。

もちろん、「質素なものしか食べない」「快楽的な場所に行かない」といった意識的な行動選択は必要です。または僻地のほうに進んでいくと、意図せずにそういう期間が続いたりします。

夜行バスで上手く眠れないが、スマホは見れないし本も読めないから延々と退屈に耐え続ける、なんていう時間は、座禅瞑想や快楽禁忌に近いものがあります。

バックパッカーたちは多少なりとも、旅の中で断食的な気づきや寺籠り的な気づきを得ていたりします。

近年は、東南アジアと言えどもどんどん快適になり快楽的になり、ロイヤルブルー的な体験をすることは難しくなってきています・・・。

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