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私は専門学校時代をどう過ごしたか

実体験を伴うコラムは刺激になるようなので、続けます。

音楽の専門学校時代をどう過ごしたか、です。

これは、二十歳後の学生さんにかぎらず、何かを習得しようとしている人や夢を追う人に、参考になるはずです。

 

 

ギターも弾けずに専門学校に入った

私は、ギターもピアノもろくに弾けずに専門学校に入りました。

メロディを紡ぐことが少しできたので、高校時代から曲を書いていたのです。それだけを頼りに、音楽の専門学校に入りました。ですから、「ボーカルコース」ではなく「シンガーソングライターコース」を選びました。

楽器は打楽器の素地しかなく、譜面は最低限度読める程度です。ピアノを習ったわけでも、上手かったわけでもありません。

 

アコギに興味があったわけでもありませんでした。

しかし自分の作った曲を人に聞かせるには、伴奏が必要です。そのためにはアコギを練習しなければ、と思って、半分嫌々ながら、高校の終わりにアコギを買いました。

いいえ、アコギだと音がうるさくて姉に怒られるので、最初は敢えてエレキギターを買いました。エレキギターを、スピーカーを通さずにかき鳴らすと音が小さいのです。3,5万円くらいしましたが、もちろん自分のバイト代で買いました。

 

シンガーソングライターコースで楽器が何も弾けない状態だったのは、およそ私くらいのものです。そこからの競争でした。

 

 

テレビゲームもアニメも封印した

一番のポイントはここだろうと思います。

歌も決してうまいわけではありませんでした。歌も楽器も、もちろん作曲も打ち込みも、すべて素人レベルです。そこから皆を追い抜かなければなりません。私は自分の曲に少し自信がありました。だから「シンガーソングライターとしての総合力ならどうにかなるのでは」という期待を抱いたのです。

猛烈な努力が必要なのは明白でした。

なので私は、大好きだったテレビゲームをほぼ封印しました。子供の頃はとてもゲームっ子だったのです。でも音楽のためにガマンしました。

アニメもほとんど見ないようになりました。

これらがものすごく時間を持っていってしまうことを、経験的によく知っていましたから。

 

素人が夢を追うとき、「何かをガマンする」というストイックさは必要になってくると思います。皆の何倍も努力が必要ですから!

 

 

パソコンも独学で習得した

音楽の専門学校では、パソコンでの打ち込みの授業があります。DTMも一通りは出来るようになるべき、という学校の方針でした。

「楽器だけでいいじゃん」と無視する生徒も多いものでしたが、私はバカ正直にパソコンの努力もしました。まず購入するところから、自分のアルバイト代で10万ちょっとをはたいて買いました。

親も家族もパソコンを持っておらず、パソコンに疎いので、私は独学でパソコンを習得していきました。打ち込みも、授業では基礎しか教えませんから、ほとんど独学のようなものです。ピアノの得意な人は打ち込みに有利ですが、私はその素地すらありませんでした。全部イチからです。

プリンターの設定画面で、泣いていました。本当にそこからです。

今でこそ毎日パソコンを使いながら仕事をしていますが、最初の2年間、私はパソコンが大嫌いでした。まったく意味がわからないのですから(笑)

 

しかし、音楽で「総合力で勝負する」となると、打ち込みもできる、録音や編集も自分でこなす、という姿をアピールするしかないと思って頑張りました。

選択授業で画像編集ソフトも勉強し、CDジャケット、歌詞カード、フライヤーの作成なども自分で行いました。絵の上手い人間でもありません。でも自分でやりました。

 

 

吸収しまくる

18歳の私は「ミスチルみたいな音楽をやりたい」と思っていましたが、「だからってミスチルを聴いているだけでは全然だめだ」と叱られるものでした。

それから、レンタルCD屋さんで片っ端から洋楽邦楽さまざまなCDを借りてきて、わからないながらも聞きまくりました。年間200枚くらい借りたと思います。

音楽番組をテレビでチェックするのは当然です。ミスチルとスピッツ以外はほとんど興味がなく、小室ファミリーなど大嫌いでしたが、流行するものや有名なオールディーズはとりあえず耳を傾ける努力をしました。

親が音楽好き、といった素地も私には無かったのです。中学の頃はほとんどポップスを聞かなかったくらいです。

 

通学の電車では、文学を読みました。本を読むのがそう速いわけでも、好きなわけでもありませんでしたが、当時、電車の中ではずっと本を読んでいました。

作詞のスキルを磨くには一般的に、文学の吸収が要ります。

 

 

路上ライブは苦行だった

1年の秋頃には、路上ライブに挑戦しました。

私は緊張しいで、まだ上手くもなく、ギターは下手くそ。ライブは苦痛でしかありません。しかし、ライブが出来るようにもならなければなりません。

「毎週金曜の20時から2時間、欠かさずやる」という目標を自分で決めて、1年くらいはそれを守り通しました。少々雨が降っても真冬の雪でも歌いました。都合のよいアーケードなど無かったので、風雨にさらされる中で歌ったのです。

それを毎週続けることは、私にとっては心身ともに苦行でした。でも、「それを乗り越えなければならない」と思いました。演奏はもちろんのこと、ステージ度胸も、声を喧噪の中に張りあげるのも、どもりながらMCすることも、CDやライブの宣伝をすることも、地元の同級生たちに笑われるのに耐えることも、すべて修行です。

 

自転車のカゴに機材をたくさん積んで、背中にはギターを背負って、ヨロヨロしながら20分走って駅まで行っていました。雪が降っていても自転車です。

 

 

ライブハウスでの葛藤

やがてはライブハウスでもライブをするようになりました。

当時は、「ライブハウスでお客さんを満杯にしないとデビューなんか出来ない」という風潮だったのです。

ライブハウスでのライブは私にとってもっと苦痛でしたし、ライブをするたびに場所代を払わなければならなかったので、本当に苦痛でした。

 

一番苦痛だったのは、「お金を稼がなければならない」ということです。

チケットをたくさん売って収益を上げないと、認めて貰えない時代だったのです。しかし、毎回30人も呼ぶことは簡単ではありません。

それに、私は大きな葛藤を抱きました。

なにしろ、路上ライブも毎週やっているのです。ファンの子たちは、路上に行けば無料で私のライブを見ることが出来ます。2時間も見れますし、私とおしゃべりも出来ます。それなのに、「ライブハウスに来て」と宣伝をするのはとても心苦しいものでした。ライブハウスでは2,500円も払って40分しか聞けず、おしゃべりもロクに出来ないのですから。

ライブハウスと比較すると、路上ライブのほうがずっと楽しい、気持ちいいと感じました。

 

私は音楽でお金持ちになりたかったのではなく、大勢の人に自分の音楽を届けたいと願っていました。でもそれを果たすには、「ライブハウスを埋めないとだめなんだ」と周りの人々は言いました。

そうした精神的な葛藤とも、戦う日々を過ごしました。

 

アルバイトをしながら、こうした日々を過ごしていました。

 

 

「総合力」ではそれなりに成果をあげたのでしょう

専門学校を卒業した春先、私は3枚目のミニアルバムを発表しました。

音楽を本格的に学びはじめて、わずか2年ちょっとです。

その短期間でこれほど多作した人間は私しかおらず、「総合力」という点においては少数の業界人が私を評価してくれました。

その業界人たちと私とでやりたいことが合致せず、プロを目指す活動は中途半端なまま26歳になり父親が死に、とりあえず音楽活動を辞めました。

芸能界や音楽業界を少し見た、セミプロといったところです。

 

芸能関係で、他にも色々なことをやったのですが、その辺は割愛します。ミュージシャン時代の活動を伏せておきたい思いもあります。どうか詮索はしないでください。この記事の主旨を理解してください。

 

 

私は音楽で成功したわけではありません。

しかし、「自分らしい曲を創って届けられるようになりたい」という目標に対して、それなりの達成感を得ました。

それは、上記のような努力によるものなのです。

 

私の人生は、ほとんど努力と集中力によって創られているものだと感じています。

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