私の人生経験を書きます。
私も2回ほどウツを経験しています。
今は「落ち込む」という時間がほとんどありません。しかしそれは2回のウツを経ての今です。
最初は小学4年生。いじめによって
最初のウツは小学4年生の頃です。
私はその頃、どもり(吃音)という言語障害を、突如わずらいました。
「ぼ、ぼ、ぼ、僕は、お、お、お、おにぎりが食べたい」といったふうに言葉に詰まってしまう障害です。
私はそのとき重度の吃音で、しかも元々陽気だったので、吃音はとても目立ちました。授業で発表するだけでも、国語の教科書を皆で「。読み」するだけでも、派手にどもるのです。
そしてからかいやいじめに遭いました。
私は学校に行けなくなりました。
2週間程度で復帰しましたが、いじめがなくなたったわけではありません。
電話に出て「はい〇〇です」も言えませんし、職員室に入るときに「しつれいします」が言えないので、もう人生に絶望しました。
しかし私の両親は、「家にいればいいよ」とは言いませんでした。「立ち向かってきなさい」と私を突き放したのです。
私は散々泣きわめいた挙句、どうすればどもらずに話せるか、話し方を徹底的に研究しました。
私がどもりであることにあまりストレスを感じなくなったのは、中学1年生のときに、「笑われてもいいや」と開き直れたからだったろうと思います。それは、どん底の中での発想の転換です
今ではほとんど吃音が出ないくらいに克服しています。
進路に悩む思春期の2回目
2回目のウツは高校3年の春です。
私は、両親も二人の姉も大学を出ています。すると「僕も大学を出なければならないのだろう」というプレッシャーを負っていました。それに向けてそこそこは勉強をしてきました。
しかし15歳くらいの頃から私は、人知れず歌の歌詞を書くようになっていました。恥ずかしいので誰にも言えませんでしたけれども。
そして3年生の春には「やっぱり音楽の道に進みたい!」と思ったのです。
しかし、何の英才教育も受けていない、楽器も弾けない、親のコネも何もない私が、勝算が高いとも思えません。それは自分で客観視できていました。それでも、進みたいのです。
そして私はウツっぽくなり、学校にあまり行かなくなりました。
8月、夏休み。私は意を決して、親に「音楽の専門学校に行きたい」と言いました。
親は反対もせず、賛成もしませんでした。
私は、学費を出してもらう以上のことを、親には何も期待しませんでした。
しかし「大学には進まない」と宣言したことで、私はウツから立ち直ったのです。
専門学校に進むことは、簡単な挑戦ではありませんでした。
才能もコネも何もない私は、努力をするしかありません。しかしヒステリー持ちの姉は、私が家で歌っているとしょっちゅう怒りました。私はアコギを背負って、河川敷まで行って歌の練習をしました。真冬の夜もです。
私は、アコギの1つも親に買ってもらいませんでした。専門学校に入ると、「パソコンが必要だ」と言われました。私は楽器もパソコンも、プリンターも録音用の機材も、すべて自分でアルバイトをして買いました。
音楽の専門学校生の8割は、ヘラヘラとノンキに遊んでいます。周りが遊んでいると皆それにつられます。しかし私はつられないように懸命に自分を保ちました。
そして私は、専門学校を卒業する頃には、小さなプロダクションから声がかかるほどには上り詰めました。そういうポジションを得たのはその学年400人のうちの2~3人です。
そして数百の曲を書き、1000の歌詞を書きました。
なぜ数百も曲を書けるの?と問われたら、「努力したから」としか言いようがありません。
なぜ1000も詞が書けるの?と問われたら、「努力したから」としか言いようがありません。
大抵のミュージシャンは、家庭環境に支えられています。しかし私は違いました。
これくらいの努力は、必要なのでは?と言いたいのです。
ウツになろうが、いじめられようが、これくらいの努力はできるのです。
くすぶる人生を、親や病気やいじめのせいにしても仕方ありません。何がどうであれ、努力で打破するしかないのです。
私は人に「努力せよ」とは言わないのですが、あなたが何かを変えたいなら、懸命に努力するしかないです。
「人生を創る」とは、こういうことではないでしょうか?
親ガチャで決まってしまうようなものではないのです。